あなたと原爆 オーウェル評論集
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発行 2019年8月
出版社 光文社
しかしこの現場やドイツで目にした他の多くの現場を通して私が明確に悟ったのは、復讐とか処罰という考え方じたいが、幼稚で現実離れした空想にすぎないということだ。言葉の意味として正しく言うなら、復讐などというものはありえない。復讐というのは自分が力を持たないときに、自分が力を持たないがゆえに、したいと思う行為のことだ。だから、自分にはしたくてもその力がないのだという感覚がなくなった瞬間、その欲望も消えてなくなってしまうものなのだ。(p32, 復讐の味は苦い)
男は決してまっすぐに伸ばさないインド人特有のひょこひょこした足取りで、腕を縛られてぎこちないながらもしっかりとした足取りで歩いていた。一歩ごとにその筋肉はあるべきところに確実に流れ込み、頭に生えた髪の房は上下に揺れ、足は濡れた砂利の上に跡を残した。そして一度など、両肩を看守たちに掴まれているにもかかわらず、道の真ん中にある水たまりを避けようと、男は足取りを少し横にそらしたのである。
奇妙な事ではあるが、その瞬間まで私は、健康で意識のしっかりした人間の命を奪うということがどういうことなのかわかっていなかった。死刑囚のこの男が水たまりを避けようとするのを見た時、まだ十全に盛りのある生命を人の手によって断ち切るという行為が、言語に絶するほど間違っているということがわかったのだ。(...) 男の目は黄色い砂利と灰色の壁を見、その脳はまだ思い出し、予感し、判断している。水たまりを避けるべきだということさえ判断したではないか。男と我々はともに歩き、同じ世界を見、聞き、感じ、理解する、同じ人間の集団に属している。それが二分後には、突然パチンとその集団の中の一人が退場する。心が一つ、世界が一つ、なくなる。 (p52~53, 絞首刑)
記録された歴史の大半が多かれ少なれ嘘である、という言い方が最近の流行であることは私も知っている。歴史の多くの部分が不正確で偏っているという意見も特に間違っているとは思わない。しかし私たちが生きているこの時代に特有なのは、歴史が正しく書かれうるのだ、という考えじたいの放棄である。過去においても人々は、意図的に嘘をついたり、自分が書いたものを無意識に脚色したり、多くの間違いを犯すであろうことをよくわかったうえで真実を追求したりした。しかし、その場合でも、「事実」がどこかに存在し、おおよそ発見しうるものだとは信じていたはずだ。そして実際にいつでも、ほとんど全ての人が同意できる、かなりの量の事実が存在していた。(...) イギリス人歴史家とドイツ人歴史家とでは、深い部分ではあるいは根本的な部分においても、お互い意見が合わないだろうが、それでも双方が本気で相手を否定したりはしない中立的事実というものがあるだろう。全体主義が破壊するのは、人間というのはみな同じ種類の動物であるという暗黙の了解を含んだ、こういう合意の共通基盤とでも言うべきものなのだ。 (p126~127, スペイン内戦回顧)
「ナショナリズム」ということばで私が言わんとしていることは、第一に、人間を昆虫のように分類することが可能で、何百万あるいは何千万という人間の集団全体に確信をもって「善良」とか「邪悪」だとラベル付けできると考えるような姿勢である。しかし第二に言いたいのは――実は、こちらの方がずっと大事なのだが――、自分をひとつの国家やなんらかの組織に一体化し、それを善悪の判断を超えた場所に措定して、その利益を増やしてくことのみが自分の務めであると認識するような姿勢のことである。ナショナリズムと母国愛(パトリオティズム)と混同してはならない。(...) 私が言う「母国愛」が意味するのは、ある特定の場所や生活様式への愛着ではあるが、その場所や生活様式を世界で最良だと思いはしてもその愛着を人に押しつけようとはしない態度のことだ。母国愛とは本質的に、軍事的にも文化的にも防衛的なものだ。対照的にナショナリズムは権力への欲望と切っても切れない関係にある。全てのナショナリストの変わらぬ目標は、自分ではなく、個人としての人格を埋没させんと自ら決めた国家なりなんなりの集団に、より大きな権力や威信を付与することなのだ。 (p151~152, ナショナリズム覚え書き)
ナショナリストは、ただ強者の側につくという原則で行動しているわけではない。むしろ逆であって、いったん自分がどちらの側につくか決めたなら、ナショナリストはそちらの側こそが強者であると自分で信じ込むのであり、事実が圧倒的に不利な場合でも自分の信じたことに固執するのだ。ナショナリズムとは自己欺瞞によって強化された権力欲だ。ナショナリストはみな最も破廉恥な不誠実さえ辞さないが、それでいて――個人よりも巨大な何かに仕えているという意識があるために――自分が正しい側にいるのだという揺ぎなき信念を持っているものだ。 (p154、ナショナリズム覚え書き)
現代の知識人ならだれでもよい、自分の心中を詳細に正直に検討してみるなら、ナショナリスティックな忠誠心やなんらかの憎悪が存在することに気づくはずである。きっとそれは厄介なものだ。誰もがそういったナショナリスティックな忠誠心や憎悪に心情的に引き寄せられることがあるというのが事実であり、その事実をそのまま冷静に見てこそ知識人という立場でいられるのだ。ゆえに、反ユダヤ主義に関するいかなる考察も、その出発点は「なぜ人々はこのように明らかに非論理的な考えに惹かれてしまうのだろう?」ではなく、「なぜ私は反ユダヤ主義に惹かれてしまうのか? その中にある何が私には本当のように感じられるのか」であるべきだというのはわかるだろう。もしこのような問いを自らに課すなら、その人は少なくとも自分自身がいかに理屈付け自己弁護しているかを発見し、その表面の下に何があるのかを発見することもできるかもしれない。反ユダヤ主義は検討されるべきである。検討されるべきではあるが、それは反ユダヤ主義者によってではなく、その手の感情に自分も感染しかねないとわかっているものによってなされるべきだ。 (p216~217, イギリスにおける反ユダヤ主義)
本を書くというのは、痛ましい病気の長い長い発作のように、恐ろしく、身を削るような戦いである。抗うことも理解することもできないある種の悪魔に駆り立てられてでもいなければ、そんな苦行に乗り出す人間なんていないだろう。その悪魔とは単に、自分に注目してほしいと赤ん坊にわめき声を上げさせるのと同じ、生まれつきの性質なのかもしれない。しかしながら、絶えず自分の個性を消し去ろうと努めない限り、読むに堪えるものを書くことはできない、というのもまた事実である。 (p252, なぜ書くのか?)